卒業のとき
脱毛症がひどくなったり、ウィッグをしたり、からかわれたりと、学校生活は嫌なこともたくさんあったが、トータルで見たら楽しい日々だった。
さき、えみ、ゆいの一生の友達は出来たし、ブラスバンド部で練習した日々も楽しかったし、クラスのみんなとトランプゲームでわいわい過ごせたのもいい思い出だった。
さきとは中学も一緒だったが、えみとゆいは住んでいた校区が私とさきとは違ったので、離れることになった。
卒業式の日は特に涙は出なかった。
学年の半分くらいは同じ中学に上がるので、また会えると思っていたからだ。
初めて両想いになった男の子とも、同じ中学にあがる予定だったが、卒業式の頃にはもうほとんど喋ることはなく、自然消滅に近い感じになっていた。
それでも私はまだ、彼のことが好きだったし、もっと色々話したいとも思っていたけど、ほぼ喋らない状態になっているのに、どういうふうに接したらいいのかわからず、悶々としていた。
結局卒業後も特に連絡を取り合うこともなく、気づけば中学校にあがる頃になっていた。
ウィッグを外した日
小学6年生の冬休み。
以前から使用していた塗り薬と液体の効果が出てきて、私の大きい部分の脱毛斑はすっかり治り、髪の毛が生えた。
他の脱毛斑も小さくなっており、ウィッグをしていた方が蒸し暑くなるほどに、私の髪の毛は生えていた。
とはいえ、完治しているわけではなく、生えない部分は相変わらず生えないし、もみあげもずっとないが、ウィッグをしなくても他の髪の毛で十分に隠せるほどだった。
そしてついに冬休み明けの3学期の登校日、私はウィッグを外して学校に行った。1年ぶりの地毛での登校だった。
ウィッグはかなり剛毛素材だったので、ウィッグを外せば髪の毛の量は一段と減った。
誰がどう見てもボリュームが落ちたのは分かるほどだったので、クラスのみんなからは、やはり指摘された。
「あれ、髪切った?」
「かつら外した?」
「新しいかつら?」
いろんなことを言われたが、この時の私は全然辛くなかった。地毛なので、かつらでしょと言われても、じゃあ引っ張ってみれば?と反抗できるし、清々しい気持ちだったからだ。
最初は色々言われたが、それも本当に最初だけ。
しだいに髪の毛の話題もなくなり、自然と過ごせるようになり、気づけば卒業を迎える頃になった。
初めての両想い
小学6年生の冬。初めて両想いになった男の子がいた。
同じクラスの男の子で、頭が良く、面白い人だった。
特にイケメンというわけではなく、モテていたわけでもなかったが、私は彼が大好きだった。
同じクラスで仲良くなり、自然と好きになった。
ある日、彼から電話がかかってきた。
学校の用事だったと思うが、他愛のない話もした。
その話の流れで、「実はりなちゃんのことが好きなんだ」と言われた。私は飛び跳ねるほど嬉しかった。
まだ小学6年生。付き合う付き合わないという話は特になく、ただただ、お互い両想いだということを確認しあった。
彼と両想いになって初めてのクリスマス。
母は編み物が得意だったので、私も教えてもらい、彼に手編みのマフラーをプレゼントすることにした。
母は私に男がいると感じたようで、写真を見せろと言われた。そのとき、姉もいたので、2人に写真を見せた。
2人ともに「全然かっこよくない」「あんたB専すぎ」「どこがいいの?」など散々言われて気分が悪かった。
クリスマス、彼に手編みのマフラーを渡した。
初めて編んだマフラー。ちょっと形がいびつになっていたが、彼はとても喜んでくれた。
それからよく2人で遊んだ。
どこかに出かけるわけではなかったが、公園に行ってブランコをしたり、縄跳びをしたりして遊ぶだけで本当に幸せだった。
とはいえまだまだ小学生同士。自分たちの友達付き合いもあるし、毎日一緒にいるわけではなく、たまに遊んだりする程度。
クラスでは「両想いなの?」と聞かれることもあり、お互い恥ずかしくなって、話さない期間も出来るようになり、次第と距離は離れていった。
恋人との別れ
小学6年生の頃。
ある日、家にいると、母がイライラしていたので、私は母の機嫌を損なわないよう、静かに過ごしていた。
すると母が突然、誰かに電話し始めた。
「もしもし、私、〇〇(苗字)と言います。おたくの旦那さんにはとーってもお世話になってまして」
嫌な予感がした。
「なんにも知らないと思いますけど、私ずっと、おたくの旦那さんとお付き合いしてました」
まさかの、男の家に直接の電話だった。
母は昔からすぐ感情的になる人だった。
おそらく男と大きな喧嘩でもしたんだろう。けどまさか喧嘩したくらいでここまでするとは思わなかった。
他にも色々と話していたが、その電話を最後に、男とは別れたようだった。
私が幼稚園の頃から続いていた関係なので、もう何年かの付き合いだった男。
ずっと母は私を置いて男のもとに行っていたし、行かないでと言っても聞かない母に対して、もう小学6年生になっていた私にとっては、男との別れなんて心底どうでもよかった。
けど、男と別れてから、私はかなり窮屈な生活を強いられることになる。
母はそもそも、誰かに依存しないと生きていけない人間だ。
ずっと男に依存して生きていた母にとって、依存先がなくなるのは死活問題だった。
その依存先は、子どもである私に代わった。
兄と姉はあまり家にいなかったので、必然的にいつも家にいる私に依存し始めた。
学校帰りに友達の家に寄ってから帰宅すると、
「今までどこにいたんだ」の問い詰めや、
友達と電話で話していると、
「誰と電話してたんだ、どこのクラスの子だ」など、しつこく聞かれた。
友達と遊びに行く、となっても事細かに誰なのか、どこで遊ぶのか、何時までに帰れなど言われ、今まで私のことをほったらかしにしておいて、急に縛り付けてくる母に対して嫌気がさした。
私が反抗すると、決まって母はこう言った。
「誰のおかげで生活できてると思ってるんだ」
「産んでやった恩を忘れるな」
「親に感謝出来ないなら出て行け」
いつもヒステリーになって、こっちが何を言ってもこんなことばかり言われるので、だんだん私も反抗することなく、ただ黙って聞いていた。
この頃、すでに私は、母のことを親だと思えず、ただの同居人としか見れなかったので、「母」という一人の人間に対しての嫌悪感が大きかった。
今まで私を置いて男を選んできたことに対しての謝罪も一切なく、急な縛り付けや暴言、嫌味。
この人はいつ死ぬかな、早く死なないかな、と毎日考えた。
兄との交流
小学5年生の頃は、ウィッグや寺のこと以外にも、思い出深いものがある。兄との交流だ。
当時兄は大学生で、授業や予定がない日や、バイトが休みの日などは家にいた。
学校から帰ると兄が家にいることもあった。
小学生と大学生が話すことなど、特にないのだが、唯一共通の趣味があった。アニメだ。
私は当時、将来は声優になりたいと思っていたので、アニメの声優さんたちを自分でリストアップしたり、声優のことを自分なりに調べたりしていた。
声優になりたい、という理由だけではなくて、単純にアニメも好きだったので、当時放送されていたアニメや、契約していたケーブルTVで放送されていたアニメはほぼチェックしていた。
兄もアニメが好きだったので、私がなんのアニメを見てるのか、よく聞かれた。
兄としては自分と同じ趣味をもっているのが嬉しかったようで、兄が一番大好きなガンダムシリーズをゴリ押しされ、一緒に見ることもあった。
当時の私は、正直、ガンダムに全く興味がなかったのだが、兄がとても嬉しそうにガンダムの説明をするので、興味がないとは言えず、付き合う感じになった。
兄はガンプラも作っていた。
夜な夜な塗装作業をしたり、乾かしたりしていて、兄の部屋からシンナーの匂いもよくしていた。
母はかなり嫌がっていたが、兄はとても没頭して作っていた。
プラモデルこそ興味のなかった私だったが、完成したガンプラを兄が嬉しそうに見せてくるので、「そのガンプラかっこいいね」と言うと「りなにあげるよ」とプレゼントされた。
全然欲しくなかったが、兄が夜な夜な作っていたのは知っていたので、断ることもできず、部屋に飾った。
兄はゲームも大好きだった。
家には常に最新のゲーム機が置いてあり、兄は時間があればいつもやっていた。
私は兄がプレイしているのを見るのが好きだったが、私自身もハマったのは、いわゆる音ゲーというものだった。
家にはいくつか音ゲーの機械が置いてあったが、私がよくやっていたのは、ポップンミュージックという音ゲーだ。
9個の色とりどりのボタンがあって、上から落ちてくる色のバーを、同じ色のボタンで曲に合わせてタイミングよく押すゲーム。
兄はかなりのゲーマーで、ポップンミュージックも難易度の難しいものばかりやっていた。
私はせいぜい、少し難しいかなというくらいのレベルのものまでしか出来ず、それでも楽しんでやっていた。
でも兄は私に上手くなってほしかったようで、学校から帰ってきたらいつもトレーニングモードで1〜2時間練習するよう指示されていた。
ゲーム自体は好きだったので、当時の私は特に文句も言わず、本当に真剣に練習していた。
兄に近所のゲーセンに連れられて、ポップンミュージックをやらされることもあった。
他の人もいる前であんまりやりたくはなかったが、とりあえず練習した成果としてやったら人だかりができた。
私がやったあとに兄がプレイすると、さらに人だかりができて、かなり恥ずかしかった。
けど兄と共通の趣味や好きなことを共有できるのは楽しく、居心地の良いものだった。
怪しげな寺
学校での生活が楽しく安定しはじめた小学5年生の秋頃。
私は母に連れられて寺にやってきた。
家からかなり離れていたと思う。なにしに行くのか、特に母から説明もないままやってきた。
奥から50代くらいの住職の男性が出てきた。
気さくな感じの住職。母になにやら色々と説明をしていたが、なんの話をしていたのか覚えてはいない。
ただ、怪しげな液体と塗り薬を母に渡し、その金額がかなりの高額だったことだけは覚えている。
家に帰り、母から、「この液体と塗り薬は脱毛症に効くやつだから」と説明された。
そして、液体は1日3回飲むことと、塗り薬は寝る前に脱毛斑に塗ることを念押しされた。
液体は2リットル瓶に入っており、中には薬草のようなものがたくさん詰まっていた。
色は緑色で、味は草やら野菜やらの味が混ぜ合わさっており、とてもじゃないが不味かった。
塗り薬は水っぽいもので、液体と同じ匂いがした。布に塗り薬を染み込ませて塗った。
使用期間は1年くらいだったと思う。
液体の不味さは最初こそ慣れなかったが、だんだん無心で飲めるようになった。
あとから聞いた話だと、あの薬はホルモン剤だったらしい。母は私に男性ホルモンが多いから髪が抜けるんだと考えたようで、あの薬を買ったそう。
結局あの寺はなんだったのか、大人になってから母に聞いたが、話を濁されたりそらされたりするので、表立って言えない事情があるようだった。
液体と塗り薬を続けた結果、小学6年生の春に生理がきた。
初めてのウィッグ
話を戻す。小学5年生の頃だ。
奇跡的に、さき、えみ、ゆいとはまた同じクラスになり、私にとっては学校は天国のようだった。
けどその頃も私の脱毛症は改善していたわけではなく、ひどいままだった。
当時、大手ウィッグ販売の企業が、ウィッグのモニターを募集していて、母が私の頭の写真を撮り、そのモニターに応募した。
結果は当選。おそらく企業も子ども用のウィッグなんてなく、サンプルとして物珍しかったのだろう。私は母と共に自分専用のウィッグを作りに、その企業へ行った。
当時は「ウィッグ」なんて言葉はほぼ存在せず、「かつら」と言われ、精度も今のウィッグとは比べ物にならないほど「髪の偽物感」ただようもの。
髪の毛全てがゴワゴワしているし、ツヤ感も不自然で、誰がどう見ても、かつらだと分かるほどのものだった。
ウィッグならぬ、かつらを作った私は、土日の連休明けの普通の月曜日に着けることを母に強制され、断ることも出来ずに着けて登校した。
髪の量がそもそも以前と違うし、金曜日は普通になかった髪の毛が、月曜日に急に増えるはずはない。
せめて夏休みなどの長期連休を挟んでから着けたかった私は、学校に行くのが嫌すぎて少し遅刻してから行った。
でも案の定、クラスのみんなから、
「え、かつらじゃん」
「かつらしてるー」
「とってみてー」
のオンパレード。本当に死にたくなった。
他のクラスの子たちからも、ひそひそと言われるようになり、学校に行くのも嫌になったが、母は休むことを許さず、行かざるを得ない状況だった。
それでも、さき、えみ、ゆいは何も言わず、私の側にいてくれた。髪の毛のことも特段触れるわけでもなく、かといって、今までの対応が変わるわけでもなく、本当にいつもどおり過ごしてくれた。
それだけが本当に私の救いだった。
なんとか前向きに学校に行くようになると、クラスの子たちも、かつらの話題に飽きたのか、何も言わなくなってきた。
もちろん、それでも言ってくる人もいたが、前より格段に減った。
そこから私も少しずつ明るさを取り戻し、クラスの子たちとも交流が増えた。
当時クラスではトランプゲームが流行っていて、私はなにげに強かったので、周りからも注目され、それでまた友達も増えた。
そうすると、またどんどん髪の毛に関することを言われることがほぼなくなり、クラスのみんなと過ごすことが私の居場所になってきた。